二代目プロマネ就任 2000年12月
語り手:此上 一也 (このうえ・かずや)

● 無念のカンサット1999

僕は、1999年、修士二年のときに、カンサットに関わっていました。あの、伝説の「初代カンサット」です。メインのスタッフではなかったんですが、基板を作ったり、いろいろ手伝っていました。小さいベビー缶衛星にカメラを搭載するということになって、僕がカメラの担当になりました。本当は、アメリカまで行って打ち上げもいっしょにやるつもりで、準備もして、航空券も予約していたんです。でも、僕はそのとき、別の研究室に所属していて、そっちの指導教授に呼ばれて、「君は、よその研究室に出入りしているらしいね」に始まるお叱りをいただき、「アメリカで打上げ?そんなことをしているようだと卒業はできないよ」とまで言われ、この年は断念しました。悔しかったですけど、こんなところに余計に一年いるのは、かなわないと思ったので、じっと我慢しました。この先生は、僕だけじゃなくて、数学ばっかりやっている学生にもつらくあたったりしていました。僕は、そんなに怒ったりしないほうなんですが、このときは、実は内心、ものすごく怒りに燃えていました。

とはいっても、つくばで行ったカンサットの振動試験までいっしょにできたので、打上げこそ経験できませんでしたが、けっこういろいろ経験させてもらえました。松永さん(先生ですが、ご本人がそう呼んでくれとおっしゃるので、さんづけで呼んでいます)は、そのころ、助手でしたから、狼先生が退官されるときに、研究室がどうなるのかわからないというところだったんです。研究室は、松永さんが助教授になられて、存続するということになったので、博士課程からそっちに行くことにしました。2000年の四月からは、晴れて松永研の学生になったので、誰に遠慮することもなく、衛星作りに専念することができるようになりました。

● フル参加のカンサット2000 

そういうわけで、僕は、学年は一番上だったんですが、初代カンサットをフルで経験した中谷たちに比べると、経験も知識も不足していました。一年の違いは、ものすごく大きな違いでした。だから、学ぶことばかりでした。電気回路の話など、わからないことが多くて、みんなの話についていけず、研究室に来たころは、必死で勉強しました。

2000年の夏、2年目のカンサットは、僕もフルで参加しました。中谷がプロマネをしていて、5機も作りました。5機のうち、3機がカメラ缶、他にセンサ缶、GPS缶ってことで、カメラミッションにかなりのウェートがおかれた年でした。結果は、かなりの成功をおさめたといっていいと思います。ここで、衛星つくりのワンサイクルを、僕としては初めて経験できて、次のキューブサットの練習になったと思います。

● キューブサットのプロマネ

キューブサットのことは、澤田がプロマネになって、ミッションとか設計とか、1999年のUSSS以来、いろいろ議論はしていたんですが、カンサットもあって、その後、北海道大樹町での実験があったりして、なかなか具体的なモノを作るというところまではいきませんでした。でも、2000年のUSSSで、東大がBBMを作ってきていたのをみて、こっちも作ろうということになりました。それからは進展が早かったです。

ちょうどそのころ、打上げが決まりそうなので、組織を組みなおすことになり、また、澤田が修士論文を書く時期になって、プロマネを交替したほうがいいということで、僕がプロマネになりました。たぶん、年が一番上なんで、そうなったんだと思います。いろいろなことを経験できるチャンスですから、前向きにやろうと思っていました。

奇遇なんですが、同じ時期に、東大でも、キューブサットのプロマネが交替しました。津田雄一がプロマネになったんです。津田とは、同じ高校のクラスメートで、席が隣同士だったんで、馬鹿ばっかりやってた仲でした。そのうえ、軟式テニス部でもパートナーを組んでいたので、よく知っていました。でも、津田が宇宙をやりたいと思っていたなんて、高校時代には全然知りませんでした。部活の仲間とは、卒業してからも時々会っていて、津田が宇宙に興味があると知ったのは、大学に入ってからでした。

とにかく、ここから、キューブサットプロジェクトは本格的に始まったわけですが、東工大チームには、すごいメンツがそろっていました。彼らのパワーに押し上げられるような形で、いろいろなことが進んでいきました。僕は、強圧的にこれをやれとかあれをしろとかいうのは、性格的に合わないんです。僕がプロマネをやりぬけたのは、中谷とか澤田とか宇井とか、強烈な意志と個性をもつメンバーのパワーに押されてのことだったような気がします。

  証言:中谷 幸司(なかや・こうじ)
どちらかというと、自分はスケジュールをしっかり守るほうではないので、あまりえらそうなことは言えないのですが、此上さんの立てるスケジュールがあまりに無茶なことが多かったので、「何言ってんだ」と、よく思っていました。 しかも、その計画が提示されるのが、結構ぎりぎりなことが多くて、大変でした。 また、USSS2000で東大がBBMモデルを作ってきたので、 東工大も至急なんとかしましょうという話を、頻繁に此上さんにしていたのですが、 なかなかアクションを起こしてくれなかったので、いらいらしたこともありました。 でも、何を言っても、とりあえず受け止めてくれるようなおっとりしたところが此上さんにはあって、 自分は、思ったことをけっこう何でもバンバン言ってましたね。