第一章 1999年11月
魔法の続き カンからキューブへ 

語り手:津田 雄一(つだ・ゆういち)

「今度は何が出るかと思ってたら、サイコロでした」 ハワイでのUSSS(日米合同の大学宇宙システムシンポジウム)に出席して帰国した永島たち、つまり当時修士課程の一年だった連中が、今度の会議で提案された新しいプロジェクトについて報告してくれた。
僕らは、ジュース缶の大きさの衛星を作って、四キロメートルの高さまで打ち上げた実験を、その夏にネバダ州の砂漠で終えたばかりだった。その衛星は、ホンモノの空き缶に電池や通信などの基盤をいれて作っていたから、カンサットと呼んでいた。
今度のは、「キューブサット」だという。一辺が十センチメートルのサイコロ型の衛星。重さは一キログラム以内。 「へえ、キューブか。それなら、作りやすいな」
「十センチ立方か。けっこうスペースがとれるんじゃないか」 ふつう、マイクロサテライトといわれている超小型のものだって、50キロとか100キロくらいだ。一キログラムの衛星など、思いもよらないのだが、ジュース缶サイズの衛星作りに取り組んできた僕らにとっては、十センチメートル立方の大きさは、十分に大きく感じられた。しかも、立方体というのがいい。電気の回路は四角いものだから、丸い缶に入れるのは、本当に難しいのだ。

僕らが、こんな会話をするようになったのは、ちょうど1年前、1998年の11月に、ハワイ行きの切符を手にしたときから始まる。日米の大学が集まる会議に参加したことで、僕らの生活は、平穏な大学生活から、タフでハードなものへと一変した。僕自身は、この変化を好ましいものと思っていた。
 そのとき、ハワイでの会議の席上で、スタンフォード大学のボブ・トィッグス先生が、コーラの缶を見せて、これで衛星を作ろうと言ったのだ。ほんの数年前のことだけれど、そのころ、大学生が衛星を作るだなんて、日本では思いもよらないことで、しかも、空き缶サイズの衛星だなんて、突拍子もないことだった。みんな狐につままれたような顔をしていたのを、今でも思い出す。
「You can do it! Try it!」 トィッグス先生は、魔法をかける名人のようで、その場にいた東大や東工大の学生は、みんなその気になって、日本に帰り、本当にジュース缶を使った衛星を作ってしまったのだった。開発期間が半年という短い間に、素人同然の僕らは、すべてが手探り状態の中で、衛星らしきものを作り上げた。これは、結局、宇宙へは行かなかったが、ネバダ州の砂漠で高度四キロまでの打上げ実験をすることができた。それ以来、毎年そのプロジェクトは新しい学生が参加して今まで続いている。

 その興奮がさめないうちに、今度はキューブサットだという。今度は本当に宇宙に打ち上げる衛星を狙う。魔法は、一度かかると、かかりやすくなるものらしく、僕らは、すぐにその気になってしまった。
「キューブなら、宇宙も夢じゃないな」  カンサットを作るのも十分に大変だったし、充実感のようなものはもちろんあったのだが、宇宙へ行けないのは残念でたまらなかった。僕としては、カンサット成功のあと、次なる大きな挑戦が目の前に来たわけで、これを逃す手はない。ちょっと大げさだが、体の奥のほうから闘志みたいなものが沸々と湧き出てきた。

打上げロケットのアレンジは、OSSSというアメリカの会社が、キューブサットを何個か集めてやってくれるということだし、中須賀先生もお金は何とかすると言ってくれたし、とにかく、期限までに作りさえすればいいらしいというので、僕らは俄然、張り切った。一年後のハワイでの会議のときに、BBM(ブレッドボードモデルの略で、機能実証モデルのこと)をそれぞれの大学で作って持ち寄ろうということになっていた。軌道は350キロメートルで、軌道傾斜角は60度。これに合わせて、設計する必要がある。ミッションを何にするか、いろいろ話し合った。カンサットをやる前だったら、夢みたいな話がいろいろ出たかもしれないが、カンサットで僕らは、「実際にやることの難しさ」を骨身にしみてわかっていたので、かなり現実的な線で議論した。

このとき、僕は、修士課程の二年生だった。このとき、博士課程への進学を決めていたから、僕が学生でいられる三年の間に、絶対に打ち上げたいと思った。打ち上げがその後、何度もダメになり、延期に次ぐ延期の憂き目にあい、その夢はかなわないままに就職してしまったけれど、それでも打ちあがるならいい。最初の宇宙からの音が聞けたら、どんなに嬉しいだろう。

あと数日で、僕らが作った衛星が、宇宙へ行く。自分が行くような気分になっている。