打ち上げ――プレセツクの管制室にて
語り手:中村 友哉(なかむら・ゆうや)

● イケバーナ

28日にプレセツクに着きました。ホテルにチェックインしてから、MCC(Mirny Control Center)に行きました。MCCは管制センターで、打ち上げ本番をここから見守ります。接続確認などしたんですが、我が研究室のパソコンは、歴戦の雄で、ネバダの砂漠など、あちこちの野外実験に連れまわしているせいか、お疲れだったみたいで、なかなかインターネットにつながりませんでした。つながるまで1時間もかかったんです。それで、それは使わずに、東工大のパソコンをネットにつないで、僕が個人的に持っていっていたのを接続して使うことにしました。本番のときにこういうことが起こってはたいへんですから、早めにつなごうということになりました。カナダのチームは電話2本、インターネット2本を確保していて、僕らの「2チームでインターネット1本」という貧弱な体制を見て、「君たちはチャットで連絡するのかい?」とびっくりされました。ちょっと恥ずかしかったです。ここでは、電話もインターネットも、設備は十分あるのですが、すべてけっこうな使用料を払わないといけないので、僕らの乏しい予算では、一本ひくので精一杯でした。それはともかく、このとき、本番の予定表をもらいました。いよいよだな、という感じでした。

ホテルに戻ってから、晩飯は、近くのバーベキュー屋へ行きました。こっちでは、ビールがペットボトルに入っていたりするんですが、けっこう大きな瓶なのに、百円以下です。こちらは、夜の9時でも明るいんです。外国人は珍しいのか、ロシア人が寄ってきます。酔っ払いの若い軍人が寄ってきて、いっしょに飲んだりしました。それくらいはよかったんですが、酔っ払ったおばちゃん達が「イケバナ、イケバナ」と寄ってきて、そのあたりの草を摘んできたかと思うと、「イケバーナ!」と叫んで、僕らのテーブルの真中にあいていた穴にどさっと突っ込んだ(生け花とはとてもいえない)あたりから、変なのにからまれはじめました。このおばちゃんたちには、本当にまいりました。異国からきた、かわいい少年たち(図々しいですが、日本人は若く見える)に、キスしまくるんです。きれいなロシアのお姉さんだったら、熱烈歓迎なんですが、重量感のあるおばちゃんたちだったので、辟易しました。これ以来、ロシアンオバハン恐怖症にかかってしまいました。それから、もっと変なのが寄ってきて、「カーレースしようぜ」などといわれて、これはまずいと思って、早々に帰りました。9時すぎに行った僕らが悪かったのかもしれません。その時間には、すでにみなさん、すっかりできあがっているんですね。

● 蚊の襲撃

29日は、特に作業もないので、ホテルで、日本との本番チャットの練習をしたりしていました。打上げ本番では、ロシア管制室と東大・東工大の研究室をネットでつなぎっぱなしにしておく予定でした。最初、一回線を2つに分けて、それぞれの大学で別々に送る予定でしたが、一人で打てる情報量は少ないですし、いっしょにやったほうが効率的だということで、両方の研究室とロシア管制室を結んでチャットすることにしました。

管制室にスクリーンが2つあって、右側にCG、左側にデータ情報が出るようになっていたので、東工大の占部君が左側、僕が右側の情報を文字で日本に伝えることにしました。このCGは、今ロケットがどんな状態にあるのかが、(今何々を切り離しただとか、エンジンの燃焼が終了しただとか)リアルタイムに表示するもので、ロケットからの信号をキャッチして、作ってあった画面が動く仕組みになっているそうです。左側スクリーンでは、「第1段分離」などの正確なイベントの時刻やロケットの高度、位置が刻々と表示されていきます。江野口と東工大の柏君がビデオとデジカメの記録を担当しました。僕は、短時間にたくさん情報を打たないといけないと思ったので、たとえば「り」と打ったら「リフトオフ」とか「だ」とうったら「第一段分離」と出るように、僕なりの略語をパソコンに登録しておきました。

午後、みんなで川べりを散歩しました。蚊が多くて、まいりました。ロシアの蚊は日本の蚊と違って、動作が緩慢なんですが、それでもさされると痒いですから、たたきまくっていました。ロシアの人は、蚊は「払いのける」ものらしいんですが、日本の習慣のまま、パチンパチンとたたいて、殺生をしてしまいました。

酔っ払いとオバサン軍団と蚊のせいで、外出は危険だということになり、この後、僕らは外出を控え、ホテルでおとなしく過ごすようになりました。ホテルの食事はおいしいんですが、昼も夜も20ドルで、ちょっと高いので、先発隊が残してくれた味噌汁とコーヒーを飲んで昼飯にしたこともありました。

● 打上げGO!

打上げ予定は、30日の現地時間18時15分(日本時間23時15分)でした。管制室までは車で5分くらいなんですが、4時にホテルを出発することになっていました。6時間前チェックというのがあって、GOかNO-GOかを判断します。プロマネのヨークさんが部屋に来てくれて、「現在の上空の風は大丈夫、このまま行けば問題ないから、心の準備をしておきなさい」と伝えてくれました。打上げに一歩近づいたわけで、緊張しました。

管制室では、僕らは、一番安い衛星なので、部屋の隅っこに場所をもらっていました。そこには、「緊急停止スイッチ」があるんですよ。唯一、衛星側がストップをかけられるスイッチです。「絶対にこれは押さないように」と何度も何度も念をおされました。ここで作業を始めてから、ずっとドキドキしていました。早くその瞬間が来てほしいと思いつつも、まだ来ないでほしい、っていう気持ちもありました。とにかく、不安と緊張でいっぱいでしたね。たとえるなら、ジェットコースターで最初の一番高い坂を上っている最中の気持ちです。

管制室と射場とは電話でやりとりしているみたいでした。もちろん、ロシア語でやっているんですが、英語の通訳が二人いて、英語に訳してくれていました。左側のスクリーンに、射場の様子がリアルタイムで映し出されていました。MCCで作業を始めてから、ずっとドキドキしていました。10分前になってもロケットが姿を現さなくて、すごく不安でした。だって、H2Aだったら、前日から見えてますもんね。サービスタワーがゴゴゴーと動いて、ロケットの筒が見えたのは7分前くらいだったと思います。ロケットが見えてきたときは、いよいよだと思いました。喉がからからで、心臓はバクバク言ってました。さっきのジェットコースターの例で言えば、最高点で止まった瞬間ですね。まわりの声は聞こえてきませんでした。そのとき、頭に焼きついたXI-IV(サイフォー)の姿が、走馬灯のように頭の中を通り過ぎていきました。

● リフトオフ!

左側のスクリーンに、射場の情景が映し出されていて、僕らはリフトオフの瞬間を、スクリーンを通して見ていました。ロシアでは、打ち上げというものは、成功するものらしいんですが、僕らにとっては初めての経験です。ロケットが地面から離れた瞬間、娘を嫁にやるかのような気持ちが一瞬して、胸がジーンとなりました。もう手の届かない遠くに行っちゃうんだね、立派になるんだよ、みたいな。もちろん、僕はそんな経験ないですから、あくまでイメージですけどね。カウントダウンみたいなのは、管制室ではなかったので、自分たちで時計をみて、数えていました。打ちあがったら後は早くて、スクリーンから、ロケットの姿はあっというまに見えなくなりました。それから、すべてを忘れて無我夢中で情報を送り続けました。チャットでは、占部君は黒い太字で書いて、僕は青い太字で書くことにしていました。日本側はなるべく書かず、書くときには赤字で、という取り決めをしていました。

ロケット打ち上げの1時間半後にキューブサットが分離される予定でした。まず、チェコのミモザが分離され、カナダのMOSTが分離され、MOST切り離しの70秒後にサイとキューブが同時に切り離されることになっていました。僕は、右側のスクリーンでCGの画面をずっとみていたんですが、MOSTの分離のあと、70秒たっても何も出てこないんです。あれって思ってました。その後、しばらくして小さいのが切り離されるのが見えたので、「キューブサット分離」と書きましたが、実は、これはカナダとデンマークのキューブサット3個を一つのP-POD(分離機構)に入れた分が分離したものだったんです。サイとキュートは小さすぎたのか、もともとCGには入っていなかったみたいです。

必死に日本側に情報を伝えている間に、「VIP」の方々が見学に来られて、お菓子をくださったり、言葉をかけてくださったりしました。でも、僕はお相手をしている余裕はなく、キーボードをたたきまくっていました。

証言:松浦 晋也(まつうら・しんや ノンフィクション作家)

ロケットの打ち上げが成功したら、衛星放出もまだだというのに、ウォッカの瓶やらおつまみ類などがテーブルに並べられて、祝杯モードに入っていました。しかし、隣の部屋の中で、我が愛すべき日本人学生たちは、机にかじりついてずっと日本との連絡作業を続けていました。手伝えないけれど、差し入れくらいしようと思って出されたカナッペなど、酒のつまみを、机に持っていきました。かえって、邪魔になったかもしれませんが、一生懸命な姿を見ると、何かしてあげたいという気になってしまったんです。
しかし、二十歳そこそこの学生たちが、曲がりなりにもロシア人と英語でちゃんと渡り合っているのを見て、たいしたものだと思いました。よくやった、と思います。

● ロシアンウォーター事件

ロケット会社としては、打ち上げが成功したら、もうOKなので、早々に片付けて、バンケットをすることになっていました。衛星が無事に分離したかどうかは、衛星からの電波をキャッチしないことにはなんともいえません。僕らは最後までねばっていましたが、撤収するように言われ、ホテルに戻って、バンケットに参加しました。ほっとしたせいか、僕は、自分の口からはちょっと言えない失態を犯してしまいました。先発隊の船瀬の無様な姿を見て、ウォッカは控えめに、とあれだけ心に留めておいたのに…。やっぱりロシアンウォーターの魔力なのでしょうか。

翌日は、衛星プロバイダーはみんな引き揚げたんですが、僕らだけが予備日としてとってあったので、残っていました。打ち上げ側のお疲れ様バンケットがあって、僕らも呼んでもらえました。この日は、江野口が、ロシアンウォーター事件の主役となり、酔っ払って騒ぎ出したので、みんなで取り押さえ、部屋に連れ帰って、外から鍵を締めました。

● 宇宙からの音

打ち上げが終わったら、ロシアにいる僕らは用済みで、あとは、日本のほうで運用をすることになります。ですが、八木アンテナと受信機を持っていっていたので、それを使って受信してみることにしました。軌道の計算を日本でしてもらって、教えてもらった時間に合わせて、近くの公園でアンテナを空に向けて電波を探しました。聞こえないだろうと言われていたんですが、ちゃんと聞こえたんです。酒匂さんが、いろいろ持たせてくれていたのが役立ちました。音が聞こえたときは、大感激でした。

朝、メールで、両大学とも衛星との交信に成功したというのは聞いていて、みんなで大喜びしたんですが、ただ、実際に聞くと、実感が湧くというか、何かがひしひし伝わってくるっていう感じなんです。大学入試の合格発表を誰かに見に行ってもらって結果を聞くのと、自分で見に行って掲示板に名前を見つけるのとの違い、と言えばいいのでしょうか。本当に宇宙で生きてるんだっていうナマの感触を味わえたんです。

パスがくるたびに、4人で公園に行って、受信しました。4回くらい行ったんですが、全部とれました。公園で外国人が変なものを空にむけて、妙なことをしているので、子供たちが珍しがって寄ってきました。かわいかったですよ。

● 行きはよいよい、帰りは地獄

プレセツクでの仕事はすべて終了して、モスクワへ戻ることになりました。モスクワからプレセツクへ行く列車で、僕らはなぜか一等車だったんです。冷房はきいているし、チョコレートは置いてあるし、花なんかかざってあって、布団は清潔で、快適でした。先発隊が列車がひどいと文句を言っていた理由がよくわかりませんでした。でも、帰りは、彼らの不満が身にしみてわかりました。二等車だった上に、4人ばらばらのコンパートメントだったんです。冷房がきかなくて暑くてたまりませんでした。そのうえ、どこかの駅でしばらく停車している間に、蚊の大群が列車にはいってきて、さされまくって、ひどい目にあいました。一等車は、料金が二倍だそうですが、差額を払ってもいいから、一等車に乗りたかったです。

でも、そういうことをさしひいても、本当にすごい経験をさせてもらったと思います。学生が自分たちで衛星を作って、打ち上げて、運用もしているんです。占部君は、キューブサットの打ち上げを、人類が初めて月に到達したことと重ね合わせていました。大げさに思うかもしれませんが、僕らにとっては、十分それくらいの価値があるものでした。人類が月へ行ったのは三十年以上前ですが、月旅行はいまだ実現していません。アポロ以来、月に行った人はいませんよね。キューブサットは、そういうことにならないように、着実に発展させたいですね。